2005年11月17日

…o(;-_-;)oドキドキ♪

 トンでもないところにわめの記事をTBしてしまったw汗 日頃より批判的合理主義とか批判大歓迎とは言っているものの、間違いなくその期待に嫌というほど応えてくれそうなくまりんさんのブログにTBしたことは、現在のわめのこのスタンスが単にかっこつけなのかどうかを知るいい機会になりそうだわw(T▽T)アハハ!

以上元記事日時 2005/11/16 12:24

 ***追記***

 くまりんさんはわめの掲示板も既に見ておられて”感銘”までしてくれていたとのこと。(お世辞としてもうれしいよ。涙)
 その上わめ宛にメッセージもくださいました。
 思わずうれし泣きです。。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

  
 日本におけるドイツ語学の第一人者関口存男が、昭和六年に完結した「独逸語大講座」全六巻の最終巻に「いつまでも初歩の辺でうろついてゐないで、はやく原書に沈没して、四五年後に顔を上げて下さい。世間が面白く無いときは勉強にかぎる。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。」ということばがあるそうです。僕はドイツ語は全然やらなかったので巡回先サイトの研幾堂さんのエントリで始めて知ってうぁあ!この関口存男という人は昭和六年に大般涅槃経を知っていたのかと驚くとともに、冷静に考えてみれば研ぎ澄まされた人の知性が選択する方法論は畢竟同じなのかとも思いました。

 たしかに詰まらぬ世の中です。フレームで切り分けたステレオタイプの非難合戦がこの国の善知識を巻き込んで横行している昨今、せめてそうした戯論から離れブッダの次のことばに耳を傾けましょう。ではこれからも宜しくご批判ください。

AGguttara-nikAya (アングッタラ・ニカーヤ) lll.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)
『比丘たちよ。討論を通じて、その人がともに語るにふさわしいかふさわしくないのかを知るべきである。
比丘たちよ、耳を傾けて話を聞くに値しない人は、喩えて話せない人である。耳を傾けて話を聞くに値する人は、喩えて話せる人である。喩えて話せる人であるならば、ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する。ただひとつの法をみずから知り、ただひとつの法をあまねく知り、ただひとつの法を捨て去り、ただひとつの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。
比丘たちよ、このために、討論がある。このために、熟考がある、このために喩えがある。このために、耳あるものを保つのである。こうであれば、執着を離れ心の解脱がある。』

********
- 清浄なる法雨の音恰が律の調べのようにわめさんに灌頂されますように -
posted by わめ at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 備忘録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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